もの書く猫

春宵青狐譚・狐は打たぬ腹鼓  (二)


d0310274_054199.jpg



 雪生が、横から口を挟んだ。

「警部、僕、金庫を調べてみたいんですが」

「おお、そうだった、頼むよ。随分と画期的な造りらしい」
 
 

櫛を手に取って検分していた坂東が、即座に承知した。

雪生はまず、強度を確かめるために、金庫の周囲の壁をたたいてみた。

鈍い音が返ってきて、金庫全体が壁に埋め込まれた土台に溶接されていることがわかった。
 

扉の厚さも、ゆうに二寸はある。非常に堅牢な造りだった。

ダイヤルの刻みは三十。
 

左右に二度ずつ回転させれば、組み合わせは……ほぼ八十万通りだ。

予告状の差出人が誰であろうと、がっちり閉ざされたこの小要塞を短時間で陥落せしめる人物、

それは青狐をおいてほかにない、と雪生は確信した。

 
 彼が長椅子に戻ると、警部と堀江刑事は、奥山が提供した屋敷の図面を眺めながら、警備の打ち合わせ中

だった。
 

坂東は自信に満ちた様子で、所在なげに顎ひげをなでているこの家のあるじを見返った。


「あとは、予告どおり賊が現れるのを待つだけです。
 

早速、巡査を屋敷の周囲に配備するように手配しましょう。
 

屋内は、十名ばかり人員を補充します。
 

なに、われわれが交替で不寝番をすれば、ネズミ一匹、近寄れやしません」


「本当に大丈夫だろうな。警察諸君が青狐に煮え湯を飲まされるのは、
 

私の記憶ちがいでなければ、二度や三度ではないはずだ。
 

この屋敷内で、あれを盗まれたなどということが仏蘭西政府に知れたら、
 

日仏の友好につとめてきた私の沽券にかかわるというものだ」



「おまかせください。さすがの彼奴めも、今度こそ年貢の納め時ですよ」
 

頼もしく請け合った坂東は、部屋から出て行きかける堀江を呼びとめ、

いくつか追加の指示を与えながら、思い出したように奥山を振り返った。

「そのお宝は、もう収めてくださって結構です。しかし、施錠だけはくれぐれも慎重に」

「もちろん、言われるまでもない」
 

箱を手に、ふたたび金庫の前に立った奥山が、雪生の目には、なんだか躊躇しているように見えた。
 

金庫の中に手を入れて、ゴソゴソと内部を探っている。

ついで、顔を寄せて覗きこみ、アッと小さく声を上げた。


「どうかなさいましたか? 奥山さん」雪生が声をかけると、

「いや、なんでもない」 征二郎は言下に否定した。

「しかし、存外お顔の色がすぐれぬようですが」

「うむ。早くから、とんだ騒動で起こされたから、少し疲れたのかもしれん……。
 

ところで諸君は、まだ朝食前だろう?
 

女中に用意させるから、今のうちに腹ごしらえをしておきたまえ」

 
 

と、ここまでは、坂東警部の采配はとどこおりなく進んでいるように思われたが、それから一時間も立たぬう

ちに、水も漏らさぬ奥山邸の警備陣は、片端から引き上げていく羽目になった。
 
 

金庫を背にして、てこでも動かぬ構えの坂東警部が、当の征二郎によって別室に呼び出され、

「警察の介入を断りたい」との申し入れを受けたせいである。
 

まったくもって不可解な申し入れの理由は、問題の予告状の差出人が、身内の人間であることが判明したか

ら、だという。
 

 あくまでも悪戯半分でしたことだから、誰の仕業なのかは伏せさせてほしい。

 お騒がせして、まことに済まなかった、と征二郎は慣れぬ頭を下げた。
 
 

今度こそ青狐を逮捕しようと、並々ならぬ決意を固めていた坂東警部は、肩透かしを食わされて、憤懣やるか

たなし、といった態で、鼻息を荒げた。

「大体、この騒動には腑に落ちぬ点が多すぎる。君もそう思うだろう、雪生君」

 しかし、政財界に幅を利かせる実力者が、ここまで下手に出ている以上、引き下がるほかはない。

とにもかくにもこの事件は、表面上、落着をみたのである。




d0310274_1342113.jpg




「いい晩だね。この夜風のかぐわしさといったらない。君も散策ですか」
 
 

田園風景の広がる、麻布・宮村町の、とろりとした春の宵。
 

気配もなく現われて、雪生に声をかけた紳士は、帝大文学部の客員教授、稲守左近だった。
 
 

母校で教鞭をとるかたわら、文士としても文壇から嘱目されている若き秀才である。



「これは、稲守先生。いつからそこに? あいかわらず音なしの構えですね」
 
 

年若い知人の皮肉に、左近は含み笑いをもらした。

「僕は、さっきからずっと君を見ていたよ。咳払いだってしたのに。

 
君ほどの人がそれに気づかなかったということは、さだめし考えごとに没頭しておられたんでしょう。
 

先日の、奥山邸の盗難予告の件かね?」

「おや、あの事件は新聞沙汰にもならなかったのに、すでにご存知でしたか」

「無論。物書きは、常に話のタネを漁っているものだよ。君も気をつけなさい」

雪生の怜悧な瞳が、針のような光を宿した。

「僕が? どうしてです?」

「このあたりをうろついている小狐は、あまたの眷属の中でも格別タチが悪い。
 

でも、僕みたいな詮索好きの三文文士にかかったら、いつ、むんずと尻尾をつかまれて、その毛並みのいい

化けの皮をはがれるかわからないってことさ」

「さすがに、先生の仰ることは文学的ですが……惜しむらくは、それが何のたとえ話なのか、全く解せません」

「じゃあ、歩きながら、もう少し解りやすい話をしましょうか。

 
実はこの付近を逍遥中に、小説のあらすじを思いついてね。ある気の毒な女性の話なんだ」

「へえ、面白そうだな。ひとつ拝聴できますか?」

 
左近はうなずいて、三寸余り背の低い雪生と、肩を並べた。
by jalecat | 2013-03-22 01:38 | 春宵青狐譚