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もの書く猫

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夢見の鳥 {Ⅰ} 

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さあ、子どもたち、炉ばたにおいで。

今夜は、あのまぼろし谷にたっていた、お城の話をしてあげよう。

おまえたちも聞いたことがあるだろう。

霧が濃くたちこめる夕べには、谷に角笛の音が響きわたり、

そびえ立つアスケル山を背景にして、古いお城が姿をあらわす、と。

そうだよ、ティルダ。

おまえのお爺さんも、若いころ、たしかにその目で見たという。


 

むかしむかし、この島が七つの王国に分かれていたときのこと。

山脈にさえぎられた海風が、青い霧となって漂うこのあたりは、

ユングバルドと呼ばれていた。



 国王の居城には、つがいの鳥がすみついていた。

くじゃくに似た美しい大鳥で、千年の寿命をもつという。

そうとも、もちろん魔法の鳥だ。

黒鳥シグルは未来を見せ、白鳥オリグルは過去を見せる。


代々の王の、眠りの果実をついばんで。
 





**********

 剣を握りしめた手に、衝撃が走る。

ゴロリと男の首が落ちた。

その血しぶきを受けながら、こみあげる叫びを抑えるために歯を食いしばり、

喉に、嗚咽を閉じ込める。



 わななく手で剣を収め、血潮をすった砂地に膝をつくと、

いつのまに陽が落ちたのか、目の前が暗い。世界が暗い。

探り当てた生首を抱え上げ、その表情に瞳を凝らす。

死者のおもては、静謐な笑みを湛えていた。

 

絶望と孤独が、牙をむきだして、残された生者を呑み込んだ。
  




                             ***


若き君主、フレゼリク・ブランドレルは、びくりと肩をふるわせて、束の間のまどろみから目ざめた。

ひどく鼓動が速い。

総身に冷たい汗がにじみ出す感覚は、幼いころ熱病に悩まされたとき以来のものだ。
 

夢の余韻に圧倒されつつ、無意識にまさぐった滑らかな手ざわり――。

それが、膝にのった黒鳥の柔らかな羽毛と知ったとたん、釣られたばかりの鱒のようだった彼の心臓は、一

転、凍りついた。

漆黒の玉を思わせる、すべてを見通す鳥の目が、父王譲りの不屈の魂をおののかせた。
  

 
頭がはっきりしてくるにつれ、いま見たばかりの光景が、夢とは思えぬほどあざやかに脳裏に広がっていく。

思わず神の名を口にしたフレゼリクは、忌わしい幻影を追いはらうため、血が出るほどに唇を噛みしめた。

 



間近に人の気配がした。

「おやすみでしたか、陛下」

驚いて顔を上げた王の前に、常に影のようにつき従う青年、グィードが立っていた。

瑞々しい梨が盛られた盆を手にしている。


「お顔の色がすぐれぬようですが、お加減でも――」

案じ顔に問いかけた従者は、主君と、その膝の愛鳥を見くらべて、さっと表情を引き締めた。

「もしや、シグルが夢をお見せしたのでは?」

フレゼリクは青ざめた唇に、笑みをつくろった。

「いや、そうではない。シグルは喉が渇いているらしい。

それを訴えるために、私の膝に来たのだ。その見事な梨は、到来物か、グィード」

「はい、先ほどナタリア姫の侍女がお届けに」

「そうか、シグル、おまえは運が良いな。早速、収穫の分け前にあずかるがいい」




依然、もの問いたげな従者から顔をそむけ、フレゼリク王は、黒鳥のわき腹に象牙細工のような指先をうめ

て、再び目を閉じた。

いつわりや隠しごとは、もっとも嫌悪すべきもの――

端麗な外見からは想像できぬほど、剛直の気質を備えた王が、ゆるぎない信頼をよせる相手に、嘘をつい

た。
 

いかな彼にも、本人を前にして、真実を告げる勇気はなかったのだ。

たった今、夢の中で自ら剣を振るい、忠実な従者、グィード・カールフェルトの首をはねた、などと。

なぜなら、それは黒鳥が見せた夢、つまり、来たるべき未来であったからだ。
by jalecat | 2013-03-29 23:14 | 夢見の鳥

春宵青狐譚・狐は打たぬ腹鼓 (三)

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「主人公は、水島紅子。職業婦人のあいだで熱烈な支持を受けている、女性解放運動家。
 

仏文学に造詣が深く、私塾で教鞭をとっている」
 

詩でもそらんじるかのように言い出す相手に、雪生は首をかしげた。


「なんだ、その人なら、架空の人物ではなくて、ちゃんと実在しているじゃありませんか。
 

それは措くとしても、先生は何故、水島女史に興味をもたれたんです。その理由からお聞かせ願えません

か。」


「理由か……そうだな、まだうら若いのに、率先規範の気概にあふれ、聡明で、しかもなかなかの美形だ。
 

しかし近頃、なにごとか激しく懊悩する様子で、その気丈な女がみるみる瘠せてしまったというんだよ。
 

女史仲間で提唱している、婦人参政権獲得の運動も着々と進んでいるというのに、 妙だと思わないかい?」


「ふーん、確かに妙といえば、妙ですね」
 
 

気のない返事にもおかまいなく、左近は少年に、ついと身を寄せた。


「ところが、彼女には、悪い風聞があるんだ。
 

留学先の巴里で、ある金満家の妾同然の暮らしをしていたと。そして、その相手が、何と、今回の騒動の当事

者、奥山征二郎だというんだがね。
 

これが真実だとしたら、厄介だよ。
 

今をときめく女性運動家が、男の囲い者だったなんていうことが世間に知れ渡ったら、彼女の支持者は落胆し

て首をくくりかねない」

「でしょうね」

「一度は捨てた女が、ぐっと女っぷりを上げて、時の人になっていると知ったとたん、また食指が動くという下

劣な輩が世の中にはいるものさ。
 

彼女はうかつにも、当時ねんごろだった証拠を、奥山に握られてしまっていたんだ」

「つまり奥山は、その証拠をちらつかせて、自分との関係を公表すると脅し、よりを戻そうとしたってわけです

か?」

「それそれ、さすがに君は頭脳明晰だ」

「ほめていただいて恐縮ですが、ぜんたい、その女史の醜聞が、青狐とどう関わりがあるんです?」


「彼女と関わりがあるのは、青狐じゃなくて、君自身ですよ、雪生君。
 

紅子女史の出自を調べてみたら、彼女の母親は、以前、鍵谷家の乳母をしていたことがわかった。
 

つまり、紅子君と君は、乳きょうだいという間柄にならないかね?」
 
 


雪生はうつむいて苦笑を隠した――やれやれ、やっぱりお見通しか。
 

さすが、怪盗青狐の正体を持つ人物だけに、抜け目のないこと。
 
 

何かがじっと息を潜めているようなしじまに、ひとしきり夜風が寄せて、二人の上に、はらはらと桜しべを降ら

せる。





「青狐の予告状は、君が書いたんだろう? 
 

君は、文中に、あえて『貴重品』としか記さなかった。
 

奥山は当然、それを手に入れたばかりの宝飾品の盗難予告と思い込んだ。
 

君は、彼がすぐに警察に警備を依頼するのを見越していたんだね。
 

そこで早速、警部と一緒に現場に駆けつけ、隙をみて、金庫の中にあったもう一つの貴重品、

おそらく紅子女史が以前、奥山宛に書いた手紙か何かをくすねたんだ」


「まったく、見ていたように仰るんですね」


「見てたのさ。僕は千里眼だよ」

雪生はついに我慢できずに、吹き出した。

「そんな風だから、狐の申し子だなんて言われるんですよ」


「おいおい、勘違いしないでくれたまえ。それは、あの盗賊の事だろう? 僕じゃないよ」


片眉を上げてそれに応えた少年は、腰のあたりにしなだれかかった山吹の枝先から、花をひとつ摘み取っ

た。

「――お察しのとおり、紅子はあの男に強請られていて、思い余って僕に泣きついてきたんです。彼女は、留

学中、貧窮しましてね。
 

学業半ばで帰国を余儀なくされていた。
 

そこに金銭の援助を買って出たのが奥山です。
 

あいつは、当時から貧しい留学生をみつけては、片っ端から食い物にして、パトロンを気取っていたそうです

よ」

「フン、なんとも下劣な御仁だ」


「紅子が取り返したがっていたのは、日記です。
 

几帳面な性格が仇になって、奥山との関係も逐一書かなくちゃいられなかったらしい。
 

まさか、それが奴の手に渡っていて、のちのちの災厄になるとは、夢にも思わなかったんでしょう」



「なるほど、そういうわけだったのか。怖い話だな。
 

僕だったら、情夫との秘め事を日記に綴る女なんて、ごめんこうむるがね。
 

ともかく、奥山はあとからその日記のことを思い出し、金庫から消えているのに気づいて、してやられたことを

知ったわけだ。
 

おそらく、紅子女史が何かの伝を頼って、青狐に奪回を依頼したと思ったんだろう……。

あの盗賊は、断じて人に使われて動く男ではないんだがね」


 知ってますよ、と目で笑った雪生は、左近の謎解きを引き取った。

「どっちにしろ、奥山にしてみれば、まさかそんなものを使って婦女子を強請っていたなんて、公に出来るはず

がありません。
 

そこで、これ以上警察を介入させるのは得策ではないと考え、狂言ということで丸く治めた。
 

めでたし、めでたし――。
 

いかがですか、先生。筋書きとしては、そんなに悪くなかったと思いますが。
 

ああ、ただ青狐が、金庫の中のレカミエ夫人の櫛に見向きもしなかったのを、あいつは不審がっているかもし

れませんね」


「だが、あのおかしな物ばかり狙うと評判の、変わり者の青狐のことだ。
 

そんなこともあるだろうよ、と、こう君は言いたいんだろう?」
 
 

口元に微笑を漂わせ、冴え冴えとした切れ長の目を細める雪生をしみじみ見つめて、左近はため息をつい

た。

「君の先生が洋行中で幸いだったよ。
 

神薙の奴、いっぱしの探偵を気取っているくせに、ご秘蔵の弟子が、実はとんだ食わせ物だって、どうして気

づかないのかなぁ。これじゃ、あんまり剣呑すぎる」


「その話、執筆なさるんですか?」

「いや、やめておくよ。そんなことをしたら、まんまと名を騙られた青狐の間抜けぶりを、喧伝するだけじゃない

か。
 

さてと、これにて語り終いだ。そろそろ退散するとしよう」


「なんだか気になるな。『ただほど高いものはない』って言いますからね」


「左様、だから僕は人に恩を売るのをやめられない。ことに、君のような相手には」

 左近の漆黒の瞳が、雪生の挑むような視線を受け止める。

見つめ合うことしばし、青年怪盗の端麗な面に微笑が広がり、その視線が、つい、と葉桜の梢へ、更に群青の

空へと向けられた。

「ああ、まったくいい月だ。狸だったら腹鼓のひとつも打ちたいところだね」

 
にやりと笑って、きびすを返す。
 


その後姿の、さらさらと黒髪がなびくあたりから、さやかな月光がそのまま音色になったような澄んだ口笛が

流れ出すと、少年はわずかに頬をゆるめた。
 
 

次第に遠のいていく甘やかなビゼーのメヌエットの旋律に、しばし耳を傾けていたそのしなやか影もまた、春

の宵闇の奥へと歩み入る。



(了)
by jalecat | 2013-03-28 00:41 | 春宵青狐譚

春宵青狐譚・狐は打たぬ腹鼓  (二)


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 雪生が、横から口を挟んだ。

「警部、僕、金庫を調べてみたいんですが」

「おお、そうだった、頼むよ。随分と画期的な造りらしい」
 
 

櫛を手に取って検分していた坂東が、即座に承知した。

雪生はまず、強度を確かめるために、金庫の周囲の壁をたたいてみた。

鈍い音が返ってきて、金庫全体が壁に埋め込まれた土台に溶接されていることがわかった。
 

扉の厚さも、ゆうに二寸はある。非常に堅牢な造りだった。

ダイヤルの刻みは三十。
 

左右に二度ずつ回転させれば、組み合わせは……ほぼ八十万通りだ。

予告状の差出人が誰であろうと、がっちり閉ざされたこの小要塞を短時間で陥落せしめる人物、

それは青狐をおいてほかにない、と雪生は確信した。

 
 彼が長椅子に戻ると、警部と堀江刑事は、奥山が提供した屋敷の図面を眺めながら、警備の打ち合わせ中

だった。
 

坂東は自信に満ちた様子で、所在なげに顎ひげをなでているこの家のあるじを見返った。


「あとは、予告どおり賊が現れるのを待つだけです。
 

早速、巡査を屋敷の周囲に配備するように手配しましょう。
 

屋内は、十名ばかり人員を補充します。
 

なに、われわれが交替で不寝番をすれば、ネズミ一匹、近寄れやしません」


「本当に大丈夫だろうな。警察諸君が青狐に煮え湯を飲まされるのは、
 

私の記憶ちがいでなければ、二度や三度ではないはずだ。
 

この屋敷内で、あれを盗まれたなどということが仏蘭西政府に知れたら、
 

日仏の友好につとめてきた私の沽券にかかわるというものだ」



「おまかせください。さすがの彼奴めも、今度こそ年貢の納め時ですよ」
 

頼もしく請け合った坂東は、部屋から出て行きかける堀江を呼びとめ、

いくつか追加の指示を与えながら、思い出したように奥山を振り返った。

「そのお宝は、もう収めてくださって結構です。しかし、施錠だけはくれぐれも慎重に」

「もちろん、言われるまでもない」
 

箱を手に、ふたたび金庫の前に立った奥山が、雪生の目には、なんだか躊躇しているように見えた。
 

金庫の中に手を入れて、ゴソゴソと内部を探っている。

ついで、顔を寄せて覗きこみ、アッと小さく声を上げた。


「どうかなさいましたか? 奥山さん」雪生が声をかけると、

「いや、なんでもない」 征二郎は言下に否定した。

「しかし、存外お顔の色がすぐれぬようですが」

「うむ。早くから、とんだ騒動で起こされたから、少し疲れたのかもしれん……。
 

ところで諸君は、まだ朝食前だろう?
 

女中に用意させるから、今のうちに腹ごしらえをしておきたまえ」

 
 

と、ここまでは、坂東警部の采配はとどこおりなく進んでいるように思われたが、それから一時間も立たぬう

ちに、水も漏らさぬ奥山邸の警備陣は、片端から引き上げていく羽目になった。
 
 

金庫を背にして、てこでも動かぬ構えの坂東警部が、当の征二郎によって別室に呼び出され、

「警察の介入を断りたい」との申し入れを受けたせいである。
 

まったくもって不可解な申し入れの理由は、問題の予告状の差出人が、身内の人間であることが判明したか

ら、だという。
 

 あくまでも悪戯半分でしたことだから、誰の仕業なのかは伏せさせてほしい。

 お騒がせして、まことに済まなかった、と征二郎は慣れぬ頭を下げた。
 
 

今度こそ青狐を逮捕しようと、並々ならぬ決意を固めていた坂東警部は、肩透かしを食わされて、憤懣やるか

たなし、といった態で、鼻息を荒げた。

「大体、この騒動には腑に落ちぬ点が多すぎる。君もそう思うだろう、雪生君」

 しかし、政財界に幅を利かせる実力者が、ここまで下手に出ている以上、引き下がるほかはない。

とにもかくにもこの事件は、表面上、落着をみたのである。




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「いい晩だね。この夜風のかぐわしさといったらない。君も散策ですか」
 
 

田園風景の広がる、麻布・宮村町の、とろりとした春の宵。
 

気配もなく現われて、雪生に声をかけた紳士は、帝大文学部の客員教授、稲守左近だった。
 
 

母校で教鞭をとるかたわら、文士としても文壇から嘱目されている若き秀才である。



「これは、稲守先生。いつからそこに? あいかわらず音なしの構えですね」
 
 

年若い知人の皮肉に、左近は含み笑いをもらした。

「僕は、さっきからずっと君を見ていたよ。咳払いだってしたのに。

 
君ほどの人がそれに気づかなかったということは、さだめし考えごとに没頭しておられたんでしょう。
 

先日の、奥山邸の盗難予告の件かね?」

「おや、あの事件は新聞沙汰にもならなかったのに、すでにご存知でしたか」

「無論。物書きは、常に話のタネを漁っているものだよ。君も気をつけなさい」

雪生の怜悧な瞳が、針のような光を宿した。

「僕が? どうしてです?」

「このあたりをうろついている小狐は、あまたの眷属の中でも格別タチが悪い。
 

でも、僕みたいな詮索好きの三文文士にかかったら、いつ、むんずと尻尾をつかまれて、その毛並みのいい

化けの皮をはがれるかわからないってことさ」

「さすがに、先生の仰ることは文学的ですが……惜しむらくは、それが何のたとえ話なのか、全く解せません」

「じゃあ、歩きながら、もう少し解りやすい話をしましょうか。

 
実はこの付近を逍遥中に、小説のあらすじを思いついてね。ある気の毒な女性の話なんだ」

「へえ、面白そうだな。ひとつ拝聴できますか?」

 
左近はうなずいて、三寸余り背の低い雪生と、肩を並べた。
by jalecat | 2013-03-22 01:38 | 春宵青狐譚

春宵青狐譚・狐は打たぬ腹鼓  (一)

 
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「只今より三日の内に 貴殿ご秘蔵の貴重品を頂戴致します    青狐 拝」

 
大正十三年四月九日、早朝。


本郷・森川町にある奥山邸の門内に、無造作に投げ込まれていた一通の書状を、庭掃除中の書生が見つ

け、大あわてで当主の征二郎に注進した。

 
当然、主人も目玉ひんむいて仰天し、すぐにこの旨、所轄の警察署長である鳥屋警視に告げんと、使いを走

らせる。
 

むろん、「くれぐれも内密に」との断り書きをつけてのことだ。
 
 

署長命令で、ただちに奥山邸に駆けつけた屈強な男達の中に、ひときわ目を引く少年の、華奢な姿があっ

た。

十六歳の探偵見習い、鍵谷雪生である。

 折しも、師と仰ぐ名探偵、神薙正午が洋行中であったため、その代理として、日ごろ事件を通して親交の深

い、古参の警部の要請を受けてやって来たのだった。


 雪生と坂東警部、そして坂東直属の部下の堀江刑事の三人は、征二郎の書斎の長椅子に陣取って、薄青

の洋封筒に入っていた書状を、ためつすがめつしていた。

「こうして見る限り、奴の真筆に間違いないようだ。どう思う、雪生君。君も、青狐の盗難予告状を何度か目に

しているはずだが」
 
 

坂東警部に問われて、少年は、短い文面のうちにしたためられた文字を食い入るように見つめて、唇を噛ん

だ。


「ええ。断言はできませんが、確かに非常によく似ていますね。神薙先生がおられたら、すぐにも判別なさるで

しょうが」


「ううむ……畢竟、筆跡鑑定家の判断にまかせるしかない、ということか。奥山さん、これは私が預からせてい

ただきますが、よろしいですな?」
 
 

安楽椅子に身を沈めたこの家のあるじは、身ぶりでそれを許可し、生あくびをかみ殺した。

 
ロココ様式をふんだんに取り入れた豪奢な書斎だった。
 

征二郎の父である先代は、もともと輸出用の陶磁器を商っていたが、当時、仏蘭西に突如として巻き起こった

日本趣味の旋風に着目した。

浮世絵の複製をはじめ、扇子だの傘だのの日用品を輸出経路にのせたところ、これが大いに当たって、以

後、トントン拍子に財を築いたのである。
 
 

征二郎はそのあとを継ぎ、奥山海運の現社主として、家業を順調に発展させつつあった。
 

年齢は、とって五十三、血色が良く、銀髪混じりの癖毛はきちんと整えられている。

先代の影響で、幼少の頃からハイカラの気風に触れて育ったせいか、鷹揚なものごしには、一種洗練された

風格があった。
 

 にもかかわらず、雪生少年は、初見からこの男が気に入らぬ。

大造りな目鼻立ちは脂ぎって、横溢な生命力を示しているのに、肝心のまなこときたら。


(まるで剥製にはめ込まれたガラス玉のようじゃないか)
 

と、これは少年期特有の、俗物嫌悪の感情だろう。

 
 一方、本題に入る時のくせで、三、四度揉み手した坂東警部は、ぐっとひと膝乗り出した。

「して、問題のお宝は何処に?」

「『レカミエ夫人の飾り櫛』なら、金庫に保管してある。先に言っておくが、あんたがたの指示通り、今朝はあれ

には一切、手をつけておらん」

「それは結構。では、この場でご確認いただきましょう」
 
 

うむ、とうなずいた征二郎は、安楽椅子をきしませて立ち上がると、背後の壁にかかっている二尺ばかりの油

彩の額をはずした。
 

そのあとに現れたのは、隠し金庫の扉である。

ダイヤル錠を合わせながら自慢げに、

「これは特別注文の品でな。おおよそ八十万種の組み合わせができる」


「ほう、それはたいしたものですな。のちほど拝見」
 

そつなく答えて、坂東警部は手帳に鉛筆を走らせた。
 

間もなく、ギィッと鈍い音をたてて扉が開いた。
 
 

中からビロウド張りの小箱を取り出した征二郎は、それをうやうやしい手つきで卓上に置いて、
 

「とくと、御覧じろ。まさしく千金に値する芸術品だ」
 

もったいをつけつつ、ゆっくりと蝶つがいの蓋を開く。
 

思わず身を乗り出した三人の口から、申し合わせたようなため息がもれた。
 
 

窓から差し込む陽光を受けて、百年前の宝飾品が、さざ波のような輝きを放っている。
 

十九世紀初頭の仏蘭西社交界の花形、レカミエ夫人愛用の飾り櫛。
 
 

手のひらに乗るほどの純金の扇面に、碧玉をちりばめた花弁と翠玉を連ねた葉を持つ蘭が四輪、柔らかな曲

線を描き、周囲は夫人が好んだといわれる真珠で埋めつくされている。
 

どこから見ても精巧かつ優美に作られていて、美術品としても第一級と言えそうだった。


「ちょっと拝見……ううむ。噂にたがわず見事なものだ。
 

あなたが先日、仏蘭西領事からこれを贈られたということは、私も新聞で読みましたぞ。 堀江、あれは、いつ

の記事だったか」

 
宝石の輝きに見惚れていた堀江刑事が、あわてて手帳をめくる。

「今月二日付の、帝都新報です」

「ということは、今や、この東京に住まう人間のほとんどが、このお宝のありかを知っている、ということだな」
by jalecat | 2013-03-18 14:41 | 春宵青狐譚